2020.09.14 インターン【サンコー食品インターンヒストリー】小濱社長編[前編]

 

 

 

▲zoomでのオンラインインタビューの様子

 

 

サンコー食品は私の父が起業した会社でして、僕自身初めはこの大船渡がすごい嫌だったんです。

 

 

いや…田舎で(笑)だから田舎から出たくて関東の方に大学行かせてもらったんですけど、まあ一応長男というか、跡取りだったので大学四年で終わってそのままUターンして来たんですよ、どこにも就職しないで。

それでサンコー食品に入りました。でもね~なんか、やり残した感というか結局大学行って何をやったっていうか、ただその東京に行きたいという気持ちだけだったので(笑)サンコー食品に入って、作業の現場からやって魚市場の担当したり、あと営業を掛け持ちしてやったんですけど、成績以前に空回りしていてこりゃ駄目だと思って、1年だけ(大船渡で)過ごしてまた出たんですよ。それで大阪でイカを扱っている水産商社に行って、その営業から貿易関係の仕事を5年学んで、辞めたくなかったんですけどまあ帰ってきちゃったっていう…。大阪では中国とか東南アジアから原料を輸入するといった部署にいたんです。海外産はやはり国産の水産品より安いって言う部分でどんどん需要が高まっていて、自分は営業マンとして実績とか成績とか上がっていくんですけど、それが、逆に言えばこのサンコー食品のような日本のメーカーがどんどん経営がしんどくなってくるって言う部分があったんです。自分の成績は上がるけど、実家の経営状態は悪くなっていくって言う背景があって、それで5年で辞めまして、2001年からサンコー食品に戻って仕事を始めました。

 

 

いえ、その時は1営業マンとしてというか、朝魚市場に行って、魚やイカを仕入れたり、それを工場に持ってきて加工をして、それで自分たちが加工をしたものを販売するっていう仕事をやってました。ほんとあの、平、平(笑)

震災明けの2012年に父が亡くなったんですよ。それから社長としてやらせてもらってますね。

 

 

震災当時は僕はまだ営業マンだったんで1ヶ月のうち、まあ半分までとはいきませんけど3分の1ぐらい出張とか多くて。結構出てるときが多かったんですけど、震災の三日前かな・・?に結構大きな地震が(東北で)あって…俗に言う余震ですよね。やはりこの辺は昔から、そういう地震津波って言う縁の深いっていうか30年周期っていう部分があって結構被害も多かったんですよ。だから年に1回避難訓練をやらせていただいてました。案の定3日後に大きい地震が来て、東日本大震災ですね。土曜日、あ、いや金曜日、金曜日だったんですよ。当時もおかげさまで会社も忙しくさせてもらっていまして、土曜日に大体こう休みの日が多いんですけど、まあ明日休日出勤ごめんやけど皆さん出てくれませんかっていうのが何週間か続いてて、まあ明日もこれみんなにこれ頼まなあかんなあってちょうど事務所で話していて。そのときにガーーーーーって地震が起きて、東京とか大阪のお客さんから心配の電話とか入ってくるんですけど結構途切れちゃったりして。あー結構大きい地震来るぞ津波が来るぞーっていうのをこう警告されてて、あーこれ逃げなきゃあかんなって。やっぱりその従業員の子らは皆訓練どおり動いてくれてちゃんと点呼とって逃げました。まあ高台に移動しましてちょうど津波がやってくるっていう光景で。まあそこまで大きいやつが来なくて工場が浸るくらいかなって思いながら、工場浸ったら明日休めるやんって思って(笑)初めは。あーよかったみんなも休めるわって思ってたら、全然予想以上っていうか想定外の大きな津波が来て…

 

 

一応この辺で13mってよく表現するんですけど…その当時知り合いの人が撮ってくれた写真があって、ちょっとなかなか想像つかないと思うけど…

 

 

工場は2階建てなんですけど、高さから言うたら10mぐらいあって、そこが全部浸かったというか、まあ一応全壊したっていう、まあそういう画なんですけど。まあそれ見た瞬間、ああ俺あほなこと考えてたなあって思いました。それで点呼とってみんな収まるまで不安だったんで話しながらおったんですけど、ある程度波も引いて、6人だったかな、家が心配だから帰りたいということで注意を促しながら帰らせました。でもそのうち1名がご自宅で第2波か第3波かの波にさらわれて亡くなったっていう…のがありまして。結構あまりにも簡単な言葉発しちゃって、大事な従業員1名失ったっていうのはずっと引きずっています。他の5人は無事だったんですけど、やはり今でも働いてもらっている従業員のうちのご家族がまだ見つからないとか…4人いるのかな。そういう方も実際にいらっしゃいます。だから、安易に人気の少ない職種だからといって海外の労働者を投入しないのはそういう経験もあるというか、やっぱりこう従業員の人たちの家族かな、こう支えなあかんなっていう責任が結構あって、だからこう今でも地元産業として追求してるわけなんですけど。

 

まあそれからどうかな、1週間ぐらいして皆自分たちの生活もままならないんですけど、気づくと会社に集まってきてくれて。ガレキの撤去とか原料とか製品とかも水に浸って溶けちゃって、もう腐敗も始まってるんで、それをこう処理しようとしてくれた人たちが1人、2人とどんどん増えてって10人、20人になって。そういう画も自分の中では鮮明に残ってて。そういった面でもやはり皆に支えてもらっている会社だなって、そういう風に感じてます。

 

 

 

記事作成:第8期インターン生 早坂愛湖